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西研コラム

〈第16回〉地震・洪水と日食の関係は?


2017年8月30日

昭和23年(1948年)は、いろんなことが起こった年として、私には忘れることができない1年なんです。当時、われわれは福井市に住んでいた。父の仕事の関係で、終戦直後にこの地に移ってきた。で、その 23 年だが、私にとっては次のような年だった。
この年、私は小学校に入学した。4月3日には、末っ子にあたる弟が生まれている。私の小学校の入学式には母親が付き添ってくれたという記憶があるけれど、今さらながら、そんな出産間近の身体でよくぞ付いて来てくれたものだと、ありがたく思う。
そして、入学のおよそ3カ月後の6月28日の16時過ぎに、大震災が福井を襲った。マグニチュード7.3、死者 3892人,家屋の全半壊約4万7千軒という甚大な被害が出た。それまでは、震度6が最大スケールだったのだが、この地震の経験から気象庁が震度階級に新たに7を設けたくらいだから、それまでにない大きな地震だったことが分かるでしょう。私の級友が一人、倒れた家の下敷きとなって亡くなっている。
家が大きく揺れ始めた瞬間、箪笥の近くで眠っていた生後間もない弟を母が掬い取るように抱き上げて、箪笥から逃げた。その直後に箪笥が倒れたので、もし、母親のとっさの行動がなかったら、弟はその下敷きになって死んでいたかもしれない。火事場の馬鹿力とでも言うべきか・・・・。
わが家は倒壊は免れたものの、余震のたびに屋根瓦が落下するなど、家にはとても入れない状況で、庭に蚊帳を吊って、その中で野宿した。7月目前の季節だから、蚊が多かった!

 

震源地は福井県坂井市(現)で、被害は坂井市の南60km、幅20km という狭い地域に集中した。坂井市は福井市の北にあり、北陸本線の駅間距離で 10 km 程度だから、福井市は被害の中心ということになった。
被災地の人口比率で言うと、1パーセント強の人が亡くなっている計算になるという。阪神大震災の被災地人口を1000万人とラフに見積もると、福井と同じ比率だったら10万人の死者が出たということになる。
昨年の東日本大震災の3カ月後の2011年6月11日の朝日新聞の記事で、「戦後の主な災害」という記事があり、下のような表が載っていた。

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1946年の南海地震はリスト・アップされているのに、その3倍近い死者が出た福井地震は、不思議なことにリストに入っていない。小学館発行の日本大百科辞書(全26巻)にも、1964年の新潟地震(死者26人)、78 年の宮城沖地震(死者28人)などはリスト・アップされているが、福井地震は外されている。福井はメディアの意識からは遠い存在らしい。
この地震の直後に、福井は大洪水に見舞われた。地震の直後に土地の古老たちが、「大地震の後には必ず洪水が来る」と話しているというのを母が耳にしてきて、わが家でもひとしきり話題になった。両者にどんな因果関係があるのか分からないし、単なる言い伝えだと親たちにもあまり気に掛けている様子はなかった。ところが、地震ときびすを接するように7月に大雨が降り、家の近く、歩いて10分くらいのところを流れていた荒川(足羽川の支流)が氾濫した。荒川は元々は吉野川という優雅な名前を持っていたのに、しょっちゅう氾濫を起こす荒れた川だというので、荒川と呼ばれるようになったという曰くつきの川だった。

 

本州南岸に停滞した梅雨前線の活動が活発になり、7月22日から雨が降り出し、24日には若狭湾沖に発生した低気圧により昼頃から雷雨が激しくなった。25日も雨が降り続き、地震で弱くなっていた(地震との関連はこういうところにあるのかな?)九頭竜川の堤防が決壊し、市内の浸水家屋は7000戸、被災者28000人に達した。九頭竜川流域全体では、死者156人、流失・損壊家屋2955戸という被害が出た。25日夜にようやく雨が止み、また九頭竜川の下流で堤防を切り開いたため、福井市内の浸水はようやく減水した。
わが家は、先ほども書いたように、荒川に近いところにあった。上流から川を下って行くと、荒川は足羽川に合流し、さらに日野川、九頭竜川につながる。洪水時の浸水地域を示した地図によると、日野川と九頭竜川本流との合流地域、荒川と足羽川の合流地域が冠水している。わが家はまさしく、後者のあたりにあったのだ。

 

陽が沈んで、そろそろ暗くなり始めた頃合だったが、玄関の引き戸の隙間から水が三和土(たたき)に入り込んできた。次第に水位が上がってきたので、これは大変だと、畳を上げて押入の上の段に入れ、その上に濡れては困る家財を積み上げていった。水は容赦無く床を越え、われわれも押入の上段に登って避難せざるをえなくなった。
終戦直後のどさくさの時代のことで、消防や警察などからの避難指示などはまったくなく、停電のためラジオのニュースも聴けなかった。
こういう災害のニュースでよく、「住民は不安な一夜を過ごした」などという紋切り型の表現を見聞きするが、まったくその通りの夜となってしまった。ありがたいことに、結局水は床上数十センチ、押入の上段にもう少しで届くというところで止まり、その後は次第に引いていった。もし、さらに水嵩が増え続けていたら、今、こんな駄文を書いていられないだろう。

 

そんな昔話をしてどうしようと言うのだとお叱りを受けそうだが、実は、昭和23年のことでもう一つ書きたいことがあり、それは礼文島での金環日食のことなのです。その年の5月9日に北海道礼文島で金環食(限りなく皆既日食に近い金環食だったという)が見られたんですね。上に書いたように、私は小学校に入ったばかりだったが、福井でも部分日食が観測できるというので、先生からその方法を教わった。当時は、停電も多く、どこの家にも大きなローソクがあったので、そのローソクを使って、硝子の破片に炎にかざすと煤で硝子が真黒になるから、それを使って太陽を見なさい、という教えだった。
北海道が皆既食だったから福井での部分食もかなりの面積が月で隠され、三日月のような細い太陽(赤っぽく見えた)が観測できた。辺りが少し薄暗くなったのを覚えている。これが、私の最初の日食体験だった。大地震の前だったから、こんな呑気な(?)ことをやっていられたのだろう。
こんなことを書き始めたのも、5月21日の金環食騒ぎのせいだなと、すぐにピンとこられた方も多いでしょう。そうなんです。昔を思い出しながら、私もやっと金環食を見るチャンスに巡り会えたぞと期待をしたのです。
かなり前から観測用の眼鏡などが売り出され、メディアなどの注意事項によると、観測には必ず、この種の眼鏡を用いなさいということだった。ローソクの煤で黒くした硝子などはもってのほかだと言うことでしたね。日食網膜症という目の障害が起こり、最悪の場合は失明もあり得るという。そうすると、六十数年前に煤硝子を何の疑問もなく使ってしまったわれわれはどうなるんだ?

 

私は1ヶ月も前に日食観測用眼鏡というのを丸善で買ってきて、金環食に備えてきた。しかし、家内が自分も欲しいといい、子供たちにも贈りたいというので、追加購入したものを含めてすべてを譲ってしまい、自分用のは手許からなくなってしまった。
21日の数日前の天気予報では、なんとか金環食が見られるのではないかというではありませんか。次の金環食を見るチャンスは2030年の北海道まではないそうで、それまで生きていられるか自信がない。ここは皆に付和雷同、金環食を見なくていかにすべきや、というわけで、また丸善に行ったのだが、以前買ったのと同じのはなく、かなり安い中国製のものしかなかった。止む無くそれを買って当日に備えたというわけなのです。
当日朝、いつものように5時15分ほど前にウォーキングに出かけたが、空はどんよりと曇っていて、金環食に「?」マークが付いた。しかし、ありがたや、5時過ぎあたりから、雲の隙間から太陽が見えるようになった。これなら、なんとかなるかもしれない。
しかし、6時頃になると、雲に太陽が遮られるようになり、望みはあえなくついえそうになってきた。気を持たせる天候だ。「○」なら「○」、「×」なら「×」とはっきりしてくれよ。じれったい。
12kmほど歩いて、7時少し前に家に戻ったけれど、皆既食が見られる可能性をどんどん厚くなる雲が奪っていくという塩梅の空模様だった。
ベランダに出てみると、雲がゆっくりと動いていて、時々太陽が雲のレースを通してのぞくことがある。さっそく、観測用眼鏡を持って、太陽が現れる場合に備える。7時20分頃、雲の隙間から太陽がチラリズムを始めた。妙齢の女性ならそれもいいかもし

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れないが、太陽がそんなことをしてどうする積もりだ! ちゃんと顔を出せ! しかも、雲のレース越しでは、太陽の光が弱くて、観測用眼鏡をかけると真っ暗で何も見えない。安い中国製だからいけないのか?

 

ところが、天は吾を見捨てず!7:33が金環食の終了ということだったが、ギリギリになって雲を通して、太陽の姿が、眼鏡なしの肉眼で見えた。雲が天然の観測用遮光シートになって、そこを透かしてリング状の太陽が見えた(写真参照)。太陽光が弱いので、目は大丈夫だろう。600mm相当の望遠システム付のカメラを持っているのだが、今朝の天候から判断して、今日は金環食は見えないと確信したため、手許に用意しなかったので、ポケット・カメラでしか写真をとれなかった。それでも、なんとか、世紀のショウ見物に参加できたというところか。


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