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西研コラム

〈第24回〉いじめ


2017年8月30日

クリント西森編著「ジョーク世界一」(アカデミー出版)という本に「罰」と題する次のようなジョークが紹介されている。

 

 

生徒 「先生、自分がやっていないことで罰せられることはありませんよね?」

先生 「もちろん、やってなければ罰せられません」

生徒 「よかった。昨日の宿題、やってません」

 

 

ところが私は、小学校時代に担任の教師から「やってないこと」で罰せられたことがある。しかも、長期にわたって、いわゆる「村八分」状態にされてしまった。そのいきさつを書く前に、それ以前に経験した辛い出来事の数々をまず紹介しよう。

大袈裟な言い方だが、自分のこれまでの人生を振り返ってみると、子供時代には酷い目に次々と会ってきた。昨今のニュースによると、最近の子供たち(大人でも同じだ)はちょっとした辛い目に会っただけで、不登校、ひきこもり、鬱病などになっているようだが、そういった今の風潮を当時の私に当てはめれば、いつそんな状態になってもおかしくない状況だった。でもそうはならなかった。何故だろう?

 

 

私は名古屋の生まれで、幼児にはいろいろな災難に遭遇した。3 歳の時に愛知県を死者 1,223 人という地震が襲った(1944.12.7)。その 1 カ月後(1945.1.13)には死者 2,308 人という地震が追い打ちをかけた。戦時下のことで、国民の士気に関わるというので、報道が抑えられ、あまり知られていないが、最近、木村玲欧著「戦争に隠された『震度 7』」という本が出版されてその詳細がようやく明らかになった。

私は幼少だったから、大きな揺れに足下を掬われて歩くことが出来ず、廊下を這って母親のいるところを探したことが鮮明に記憶に残っている。

やがて米軍による空襲が激しくなり、焼夷弾が降る中を防空壕に逃げ込む日が続いた。空襲を避けて母の郷里である石川県輪島に疎開し、戦後、福井に移り住むという変化の激しい幼少期だった。

その移り住んだ福井では 7 歳(小学一年生)の折(昭和 23 年~1948.6.28)にまたまた大地震に遭遇した。この地震についてはこのカラムでも一度書いているから、詳述はしないが、概略を示せば次のようなものだった。

福井平野を震源地とするマグニチュード 7.1 という大きなもので、全壊家屋 36,184、焼失家屋 3,851、死者 3,769 人というデータがある。被害は局地的で、ほとんど福井県内に集中した。当時の人口は福井県全体でも 75 万人程度だったから、200 人に 1 人くらいの割合で犠牲者が出た計算になり、人口比では阪神大震災や東日本大震災よりも大きな被害だったと言える。クラスメートも一人亡くなっている。

道路には大きな地割れが走り、落下物で傷ついたのだろうか、頭から血を流しながら人が走り抜けていった。遠くに目をやると、あちこちで火災が発生しているようで、煙が立ち上っていた。余震が激しく、その度に屋根瓦が落下してきた。室内に留まるのは危険で、その夜は庭に蚊帳を張って寝たほどだ。

この大地震は、阪神淡路大震災が起こるまでは、関東大震災以来の最悪の地震と言われるほどの大被害だった。3.11 の東日本大震災から 3 カ月後の 6 月 11 日付の朝日新聞朝刊に、「戦後の主な災害」というリストが載った。

しかし、その記事では福井地震についての記載はない。終戦直後だから忘れられた? いやいや、その 2 年前、終戦翌年の南海地震(1946 年 12 月)は福井よりも被害は少なかった(死者・行方不明合計 1443 名)けれどちゃんとリスト・アップされている。

 

 

小学館発行の日本大百科辞書(全 26 巻)にも、1964 年の新潟地震(死者 26 人)、78 年の宮城沖地震(死者 28 人)などまでリスト・アップされているが、福井地震だけは載っていない。福井地震はメディアの意識からは遠い存在らしい。阪神や東日本の災害に対して、記憶を風化させないようにとマスコミは散々説いているけれど、福井に関してはマスコミが先頭に立ってこの有様だから、最近のこの二つの大震災についてもそのうちに何も言わなくなる恐れがある。

追い打ちをかけるように、その地震の数ヶ月後には福井に大雨が降り、自宅の近くを流れる川が氾濫して、我が家も洪水に見舞われた。まだまだ戦後のどさくさの中、避難勧告や命令などというものも発せられず、突如我家に洪水が流れ込んできた。家の外を見ると道路はすっかり冠水していて屋外に出ることもできず、押入の上段に逃げ上るしかなかった。水が床上に達して徐々に水位が上がってくるのを押し入れから見下ろしながら、「それ以上、増水しないでくれ」と祈るしかなかった。幸い、床上数十センチに達したところで、水が徐々にではあるが引き始め、我が家はなんとか助かった。

 

 

これだけの天災にいじめ抜かれた私だが、小学校に上がってからは「人災」に見舞われることになった。前振りが長すぎたが、ここでやっと最初に触れた教師による「村八分」問題について紹介する。

小学 3 年になって数ヶ月後に父親が名古屋に転勤となり、我が家も再び名古屋に住むことになった。福井という田舎から大都会にいきなり放り出されたわけで、戸惑うことが多かった。

転入したのは名古屋市立葵小学校というところだった。転校してきて二、三日後にペーパー試験があったらしい。「らしい」と書いたのは、自分でもその試験を受けたかどうか記憶が定かではなかったのだ。で、数日後にその答案が生徒に返されたのだが、その時、担任の女性教師が、「答案に名前の書いてない人が一人いた」とだけ言って、すぐに授業に入ってしまった。

その名前を書かなかったのが私らしく、後から考えると先生は「それは僕です」と名乗り出てくれることを期待したようだ。しかし、先ほど「らしい」と書いたように、転校直後のことでもあり、しかも答案用紙は見ることができないのだから、その試験がどんなものだったのかさえ知る術がなかった。従って、受けたかどうかなど分かるはずがなかった。その上、「それは僕です」と名乗り出なければならないなどとは思いもしなかった。田舎から出てきて、都会の学校のやり方が分からなかったということもある。

 

 

松田道弘著「ジョークのたのしみ」(ちくま文庫)にこんなジョークが載っていた。

 

先生 ワシントンの父親は、ジョージが桜の木をきりたおしたとき、なぜ許してやったのでしょう?

生徒 少年がまだ手に斧をもっていたからです

 

 

残念ながら、私はあの時は斧どころか鉛筆削りさえ持っていなかったから、先生は何も恐れる必要はなく、私を許してくれなかった。

前後の先生の行動から思えば、名前を書かなかった生徒は私だと言うことを彼女は分かっていたのだから、「今度からは名前をちゃんと書くように」と注意して私に答案を返して呉れれば、「あっ、それはやっぱり僕だったのか」と思い、「はい、分かりました」と素直に受け答えができたはずだ。

ところが、名乗りでなかったばかりに、先生は「こいつは強情で、素直ではない」と決めつけてしまったようだ。それから、その教師による陰湿ないじめが私に対して始まった。

私が小学 3 年生の昭和 25 年の出来事で、その当時はまだまだ終戦直後のこととて食料難の時代だった。福井ではまだ実施されていなかった給食がすでに名古屋では始まっていたのは大都会ゆえだったのか? 主食はパンで、おかずは大きなバケツのようなもので教室に運び込まれ、給食当番が一人分ずつ容器に入れて生徒に配るというスタイルだった。

バケツには少し多めに入れていただろうし、休みの生徒もいるから、給食を皆に配分した後で必ずといっていいほど、その「バケツ」にはなにがしかが残った。それを「増配」と称して貰うことができ、いつも欠食状態の生徒にとっては、これが一種の楽しみでもあったのだ。

増配の配り方は、たとえば窓側の列の一番前の人から後方に少しずつ各自の容器に入れて行き、無くなったら続きは翌日にという案配だった。だから、いつかは自分の番が来るのだが、いつも私は先生の指示でスキップされ、増配に与ることはできなかった。食べ物の怨みは恐ろしいよ。未だに忘れられないのだから。

また、教室の後ろの壁にはクラス全員の名簿が貼ってあって、宿題をちゃんとやってきたとか、掃除当番をきちんと努めたなどの「良い行い」をすると教師によりシールを貼ってもらえた。つまり、そのシールの高さ(枚数)をクラスの生徒たちは競ったのだ。

しかしながら、もう皆さんも予想出来たことだろうと思うが、私はどんなことをしてもシールを貰えなかったから、まったくシールの高さは伸びなかった。

今なら、このような教師は教育委員会などに訴え出れば、懲戒の対象となるだろうが、当時はそんなことは考えられなかったようで、ずっと村八分が続けられたのだった。

 

 

もう一つのいじめは父親からだった。たとえば、兄弟(兄、妹、弟が一人ずついた)が風邪を引くと、父は寝ている彼らの額に手を当て、「熱があるな。ちゃんと寝てなさい」と気遣った。しかし、私が風邪を引こうものなら、「緊張感が足りないから、風邪を引くんだ」と叱られた。

「タバコを買ってきてくれ」などと用事を言いつけられるのはいつも私だった。何も口答えせずに、気軽に引き受けるので言いやすかったということもあったかもしれない。

兄が大学入試に失敗したとき、父は「残念だったなあ」と一緒に涙を流したものだが、私が同じような境遇になったときは、「わざと落ちたんだろう」と貶された。

この父親の私に対する行為は親戚でも問題視したようで、父の伯母が「なぜこの子だけに辛く当たるのか」とたしなめたことがあったそうだ。父は「この子を最初に抱いた時に泣かれたからだ」と答えたという。

これはちょっと説明を要するかな。私は父が出征中に生まれ、父が一時帰国したときに初めて私を抱き上げたら、泣いたということを言っているのだ。いくら父親とは言え、乳児がそんな状況を理解できるわけもなく、見知らぬ人にいきなり抱き取られたら泣くのは当たり前だと思うのだが、なぜそんなことを問題視したのだろう。

私がある程度大人になっていろいろなことを学び、世事が解ってくるとともに、ああ、こういうことだったのかと合点したのは次のような事件の存在を知ったからだった。

私は、幼少時代に天災、戦災以外にもう一つの辛い体験をしている。小学校に上がる直前に腸閉塞を患い、開腹手術にまで至ったという経験しているのだ。終戦直後のことで、医療技術も今よりはるかにレベルが低く、看護体制も整っていなかった。母の後の言によると、医師からは「治る可能性はきわめて低い」と言われたほどの重病だったそうだ。完全看護というような体制は整っていなかったから、母は私の病室にもう一つベッドを入れ、泊まり込みで数ヶ月看病してくれたという。そのおかげで、敢えて言えば「奇跡的に」回復し、今日まで生きて来られたのだが、実はその裏で怪しからんことが起こっていたのだ。

恥を忍んで書けば、長期の母の不在の間に父が浮気をしたのだ。私が奇跡的に病から逃れ、退院したあと、いつもことあるごとに、母はその問題でチクチクと父に当たり、夫婦間の諍いの種になっていた。それが、父の私を嫌う原因になったのではないかと思うに至ったのだ。つまり、「あいつがあんな大病を患って入院したから、こんなことに陥ってしまったのだ。あいつが病気になりさえしなければ・・・・」と責任転嫁して、自分の罪の意識を軽減しようとしたのだと思う。ともかく、私に対する父の風当たりはいつも強かったのだ。

後年、母はよく私に言ったものだ、「あんなにお父さんにしょっちゅう辛く当たられたのに、よくぐれなかったわねえ」と。それに、教師による村八分状態も私を落ち込ませることはできなかった。登校拒否もせず、毎日何事もなかったかのように当の先生の授業を受けていた。家での生活も平静に続けていた。何故だろう? 私が極めて鈍かったから? そんなことはない。

 

 

当時、小学校があった名古屋市東区で「計算書取コンクール」というのがあった。区内の小学校から学年ごとに代表者を選び、算数の計算問題と国語の書取問題をやらせて成績を競わせるというイベントだ。私がそのコンクールの「葵小学校 3 年生代表」に選ばれたのだった。

例の担任教師が私を選んでくれたのではなく、3 学年の担任会議のような場所で、彼女には不本意だったようだが、決められたのだろうと思う。「代表になったよ」と冷たく告げられただけで、一緒に喜んでくれるなんてことはなかった。

その時感じたのは、いくら担任に睨まれていても、成績がよければ無視できないんだなということ。「なぁーんだ、ちゃんと勉強していれば、誰かが見ていて、認めてくれるんだ」と思った次第。

その時代はテレビもなく、ラジオも民放がなくて NHK ラジオだけだったから、晩飯を済ませるともう何もすることがない。NHK ラジオのゴールデンアワーの人気番組、「二十の扉」「わたしは誰でしょう」「とんち教室」「君の名は」などが終わると、大人でも何もすることがなくなってしまい、皆、9 時頃には床に就くという毎日だった。

ところが私は小学低学年の頃から家族が寝たあとも一人で勉強をしていた。勉強机などは無かったから、ミカン箱を机代わりにして遅くまで教科書に取り組んでいた。その成果が学校の成績にも現れ、学校側もそれを評価してコンクール代表にしてくれたのだろう。

その後の人生で似たような状況が何回かあり、「努力をしていれば、誰かがそれを見ていてくれ、私を認めてくれる」という座右の銘が確立した。

会社に入ってからも上司と対立することが間々あり、そのせいだろう、社内での出世は決して速いほうではなかった。でも、「ちゃんと仕事をしていれば、見ていてくれる人が必ずいて正しく評価してくれる」ということは常に真実だった。

前回書いたように Draper 賞についても、私の出身会社は推薦も何もしてくれなかったが、私のやってきたことを「見ていてくれた」人が社外にいて、アメリカの National Academy of Engineering に推薦して下さった。

言わずもがなのことを付け加えれば、「悪いことをしたり、すべきことをしていない」ケースでも見ている人が必ずいる、ということをお忘れなく。

辛いことや「いじめ」に遭遇しても、落ち込んでいたら何ももたらされない。それより、前向きにしっかり仕事や勉強をしていれば、必ず良い結果に至ると信じたほうが良いのではないか。


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