HOME >  西研コラム >  〈第25回〉「天ぷら」あれこれ

西研コラム

〈第25回〉「天ぷら」あれこれ


2017年8月30日

昔、仕事で三重県の松阪に行ったことがあり、ある夜、天ぷら屋で接待を受けた。ところが、その店ではいつまでたっても天つゆが出てこない。店員に訊いたら、「当地では、天ぷらは皆さんソースで食べますけど」と言われた。なるほど、テーブルにはソース瓶がデンと鎮座ましましていた。仕方がないからソースで食べたけれど、ソースのような濃い味のものを付けたら、材料のデリケートな美味しさがソース味にかき消されてしまう。

その後、野瀬泰申『天ぷらにソースをかけますか?』(新潮文庫)という本が出たので読んでみたら、天ぷらにソースをかけて食べる人の割合を県別に調べていて、その結果は次のようになったとレポートしていた。

 

 

80% 以上:和歌山

60~80%:沖縄、鹿児島、香川を除く四国 3 県、鳥取、奈良、福井、

40~60%:埼玉、富山、岐阜、三重、京都、大阪、兵庫、広島、岡山、島根、山口、長崎、福岡、大分、宮崎

20~40%:静岡、愛知、長野、石川、滋賀、香川、熊本、佐賀

20% 未満:山梨、神奈川、東京、千葉、茨城-群馬-栃木-新潟以北

 

 

東日本型と西日本型の食文化の境界線といわれる糸魚川-静岡構造線(フォッサマグナの西端)をこの地図の上に引いてみてほしい。どうだろう、完全ではないがほぼその線を境に西はソース圏、東は非ソース圏になっているではないか。つまり天ぷらにソースをかけて食べる文化は西日本に固有の文化であることがわかる。

だから、三重県では天ぷらにはソースをかけるというのはそれほど不思議ではないということになる。

皆さんは、天つゆ派ですかソース派ですか? 私は天つゆ派なので、以下の拙文は天つゆで食べて美味しいと感じた天ぷらの話ですので、その積もりでお読み下さい。

 

 

鶯亭金升『明治のおもかげ』(岩波文庫)によると、「天ぷら」という名称は「天竺浪人がフラフラと始めたと言う洒落」だそうで、江戸後期の戯作者・山東京伝が命名したとのこと。『スーパー大辞林』によれば、天竺は逐電の倒語で、浮浪人という意味だそうだ。

そうだとすると、今でこそ天ぷらと言えば日本の代表的料理の一つだなどと気取っているけれど、江戸時代には怪しげな食べ物だったようだ。

以前、このカラムに行きつけの店の一つとして、寿司屋のことを書いたけれど、寿司屋というのは客がカウンターに座り、職人が客の目の前で調理するというスタイルをとっている。こんなやり方を採るレストランは西欧にはまったくないと言ってよいだろう。彼の地では、料理は客には見ることの出来ない調理場ですべて作られ、出来上がったものが運ばれてくるというスタイルだ。

だから、海外からの客人を寿司屋のカウンターに案内してご馳走すると、非常に喜ばれる。ケースに収められているネタを見て自分の好きなものを選ぶことができ、職人がただちに目の前でそれを調理してくれるし、客はその間、一部始終を見ることができるのだから、面白い上に、なにより安心だ。

外国人のみならず、私だって見ていて愉しいし美味しいから、よく寿司屋に行くのだ。

似たようなやり方を採る料理屋に天ぷらカウンターがある。てんぷらにはもちろん、調理場で作ってテーブルに運んでくるというスタイルのものもないではないが、やはり、カウンターに客が座り、板前が目の前で揚げてくれた熱々のものを食べるというのが実に美味しい。だから、私もそういうスタイルの天ぷら屋にはよく通った。

しかし、天ぷらも寿司同様、いや、寿司以上に調理人の腕次第でずいぶん味が変わる。だから、店選びには苦労する。

 

 

以前私は福島県の郡山に 10 年ほど単身赴任をしていたことがある。自炊する時間がないときには外食ということになったのだが、そんな時、しばしば通った店の一つに天ぷら屋があった。そこはテーブル席も一つだけあったけれど、カウンターが主体だった。借りていたマンションから歩いて 10 分くらいということもあり、よくその店を利用した。

福島県は県内を南北に細長い三つの地域に分けて、浜通り、中通り、会津と呼んでいる。浜通りは読んで字のごとく、海岸寄りの地域であり、この間の 3.11 の震災では津波の被害を受け、さらには原発事故のあおりを受けて今なお苦しんでいる地区だ。会津はご承知のように県の西側の内陸部ということになる。で、郡山市や福島市が位置する中通りは文字通り県央で、浜通りと会津に挟まれた地域を指す。そのため、中通りでは浜通りの海の幸と会津の山の幸の両方を賞味することができる。

たとえば、この行きつけの天ぷら屋では、春先になると、タラの芽とか、コゴミのような山菜を目の前で揚げてくれた。しかも、その材料は市場で仕入れたものではなく、板長自身が山に入って採取してきたものだった。でも、その場所は人には絶対に教えず、自分だけの秘密にしているとのこと。

八百屋などで買うことの出来るタラの芽はタラの木の枝を挿し木して春先に出る芽を採取したものだそうで、いわば栽培物だという。だから、天然のタラの芽というのには実際にはなかなかお目にかかれないのだが、それを自分で採ってくるというのだから、ここの板長はやはり凝り性なんだろう。

蕗の薹、ギボウシの若葉、珍しいものでは、春蘭の花、カタクリの花や葉なども春を告げる山菜として登場した。ある年の 3 月の初め頃訪れた時、板長自身が磐梯熱海で雪の下から採取してきたものだという蕗の薹を供されたが、その日の板長は風邪を引いていて調子が悪そうだった。どうしたのかと訊いたら、その蕗の薹を採りに行って風邪を引いたんだそうだ。磐梯の 3 月初旬は雪も残っているし、まだまだ寒いからそれも無理もない。鼻水を垂らしてはいなかったから良かったけれど・・・・。

これだけの凝り性だからだろう、天ぷらの食べ方にうるさかった。たとえば、クルマエビは「塩で」と指示され、天つゆで食べるわけにはいかなかった。ただ、山菜などの野菜類の大部分は天つゆで食べても嫌な顔はされなかった。

ところがある日、山菜らしき素材の天ぷらが出されたのだが、「塩で」という指示。「なぜ、この山菜に限って塩でたべなきゃいけないのか」と訊いてみたら、その山菜の名前が「シオデ」なのでそう紹介したまでで、「塩で食べなさい」と言ったわけではないとのことだった。「山のアスパラ」と呼ばれる山菜で、天つゆでたべても美味しかった。

魚ではメヒカリ、檜原湖のワカサギなど福島の地方色豊かなネタが供されたが、車エビは決して地元のものは使わず、同じ養殖ものではあるけれど、大分産のものが美味しいといってわざわざそこから取り寄せていた。シャコも金沢八景から取り寄せたものだと言っていた。

初夏に美味しい若鮎も地元福島県産ではなく、紀ノ川や有田川の紀州のものを仕入れているという凝りようだった。福島産の魚では岩魚の卵の天ぷらが美味しかった。イクラだと噛んだとき粒が破れて中からちょっと生臭い汁が出てくるが、岩魚のそれはイクラより小粒だから、汁が滲みでることもなく、生臭さが感じられないので美味だった。

この店で面白かったのは、デザート代わりに出される天ぷらで、代表的なものは饅頭またはアイスクリームを揚げたものだった。郡山には地元の和菓子として有名な薄皮饅頭というものがあるが、これを天ぷらにしたものが供された。そのまま食べるか、唐辛子をつけて食べるのが流儀だった。

アイスクリームの天ぷらというのは、コーンとかそういうものに入れたものではなく、裸のアイスクリームに薄い衣を付けて揚げるのだから、まさに「アイスクリームの天ぷら」としか言いようがない。不思議なことに、中は冷たいアイスクリームのままなのに衣はまさに天ぷらのそれで、暖かくてカリッとしている。これはまさに板前の腕としか言いようがない。

共同研究をやっていたイギリスの会社の人をここに招待したことが何度かあったが、先ほど書いたように、外国人にとってはこのようなカウンタースタイルの店は珍しいので、大変に喜ばれた。共同研究者の中には、南ア連邦(現・南アフリカ共和国)に長い間住んでいたという女性がいたが、彼女はサツマイモの揚げたものが大好きだと言って、繰り返し注文していた。訊けば、南アではサツマイモは超高級品なんだそうだ。

 

 

名古屋にもいい天ぷら屋があった。あるホテルの和食レストラン内にあった天ぷらコーナーで、カウンター席が 8 席くらいあった。過去形で書いたのは、最近このコーナーが無くなってしまったからだ。

この天ぷらコーナーの主任のやることを見ていると、天ぷらという料理においてはいかに油の温度管理が重要かがよく分かった。温度が低いと、衣やネタそのものが油をたくさん吸って、天ぷらが油っぽくなってしまう。彼のやり方は、それを避けるためだろう、いつも火力を強めにして手早く揚げていた。ただ、そうすると、油の温度が上がりすぎて、天ぷらが焦げてしまう可能性がある。そうならないように、彼は油の調子を常に注視していた、温度が高くなり過ぎていると判断すると、天ぷら用の衣だけを少しずつ油の上に散らすことによって温度上昇を防いでいた。これだけ意を用いて温度管理した結果生まれてくる天ぷらは、衣はカリッとしていて、ネタの方は持ち味が 100 パーセント生かされた熱の通り具合になっていた。

しかし、残念なことに 4~5 年前に彼の姿が見えなくなってしまい、彼の下で働いていた若い板前が後を継ぐようになった。そのとたん、天ぷらはそれまでとは似ても似つかぬものになってしまった。彼も前任者のやり方を見て育ってきたはずだから、そのうちに腕前を上げてくるだろうと期待して数度通い続けた。

しかし、やはり客は味の変化に敏感に気づくもので、今までは早めに予約の電話を入れておかないとすぐに塞がってしまっていたのが、その頃は客足が遠のいていった。ある日、天ぷらコーナーに行ってみると、先客は一人だけだった。私は板前が仕事をしやすいようにと、先客の隣の椅子に座った。ところが、驚いたことに先客はあの「カネやん」すなわち、往年の大投手金田正一だった。彼は名古屋にも会社を持っていて、時々、そこを訪問するために名古屋に来て、このホテルを定宿にしているのだそうだ。

実は、私の父親は元国鉄職員で、カネやんが所属していた国鉄スワローズのファンクラブにも入っていた。そんなことから、二人で当時の野球の話題で盛り上がりながらてんぷらを楽しむという筋書きが進みつつあったのだが、板前の腕が上に書いたようにダメで、カネやんもいらいらしてきたのだろう、いきなり板前を怒鳴りつけた。というのも、天ぷら鍋から煙が上がっていたからだ。温度が上がりすぎていたのだ。それを見たカネやんが怒ったというわけ。「油から煙が出てるやないか。温度が高すぎるんや。ちゃんと見てろ」と。

田村隆『隠し包丁』(白水Uブックス)には、天ぷらの油の温度管理について分かりやすく書かれている。それによると、

衣をポタリと落し入れ、鍋底にフッとついてすぐ浮き上がってくるのが 165 度から 170 度ぐらいである。醤油や味醂なんかで下味をつけた材料を揚げる時などに適する温度である。鶏肉の唐揚げなどはその類であろう。高い温度の油には醤油や味醂などが焦がされてしまうので、慌てて取り出してみると鳥の身には火が通っておらず、半生という悲しい結末が訪れるわけである。

衣が底につく前に上がってくるぐらいが 170 度から 180 度のところである。ちょうど天ぷらを揚げるのにふさわしい温度帯である。

衣が油の表面で散ってしまうあたりが 185 度以上ということである。

このように、油の温度が極めて重要なのに、主任が変わってからはそれが出来ていないために、この店から次第に客足が遠のいてしまったのだ。あの主任はその後どうしたのだろうか。その若い板前にそれとなく訊いたところ、独立して自分の店を持ったという。詳細な場所は聞き出せなかったが、市内の中川区とのことだった。主任の名前は知っていたので、名古屋在住の知人に、「主任の名前」「中川区」、「天ぷら」をキーワードにネットで検索してもらったが、ヒットしない状態で 3 年ほどがあっという間に経ってしまった。ところが、去年になってそれらしき店にヒットできたそうで、彼はその情報をたよりにそこへ行ってみたら、間違いなくその主任がやっている店だったという。彼も数度、ホテル時代の天ぷらコーナーに私が連れて行っていたから主任の顔は見知っており確かな情報だ。かくして、昨年から再びおいしい天ぷらにありつくことができるようになった。

この店で特筆すべきはサツマイモの天麩羅と雲丹の天麩羅だろう。サツマイモは薄いスライスではなく、一本を二つか三つくらいの大きな固まりに切ったものを皮付きのまま揚げるのだが、仕上がりは素晴らしく、皮のすぐ内側はこんがり、中心部はほっくりとまるで石焼き芋のようだ。あのイギリスの女性に一度これを味わってもらいたいと思うのだが、チャンスがない。

ウニの天ぷらも、ここでしかお目にかかったことはない。ウニを寿司の軍艦巻きのように海苔で巻いて、天ぷらにする。これも外側だけが火が通っていて、中側は暖かい生ウニと言った雰囲気で、その二つの味の組み合わせが絶妙だった。

 

 

もう一軒、面白い天ぷら屋を紹介しよう。大阪駅前にある有名ホテル内にある店だが、衣の付け方がユニークなのだ。普通は、小麦粉を水で溶いて使うが、それでは衣が厚くなって油を多く吸うから油っぽくなってしまうというわけで、その店の板前はネタに直接小麦粉を付けている。でも、それでは唐揚げと変わらないことになってしまい、天ぷらとは似ても似つかぬものになるだろう。そこで、その板前がやっているのは、小麦粉を付けたあと、霧吹きで水を吹き付けるのだ。そうすることによって非常に薄い衣とすることができる。で、それを揚げると、油が少なくさっぱりとして、ネタの味が油に邪魔されることなく直接味わえる天ぷらに仕上がるのだ。

 

 

「いったいに、私は、地方都市に限らず東京でも、ここと決めたら店を変えない。だから多くの店を知ることはないが、どこの店とも親類づきあいのようになってしまう」と書いたのは山口 瞳(『行きつけの店』)だが、私もまったく同じ行動パターンだ。だから、食べ物のことを書くと、どうしても以前の寿司屋や今回の天ぷら屋のような文章になってしまう。今回も三軒の天ぷら屋についてあれこれ書いたけれど、それぞれの板長の料理に対する取組み方が R&D をやる上でも大いに参考になった。例えば、大阪の店は、誰もがやっている昔ながらの衣のやり方を棄てて、新規な方法を大胆に取り入れて成功したと言えるだろう。R&D にもこんな発想の転換が欲しい。

郡山の店は、いい材料を入手するためには手間暇を惜しむなということを示している。我々が商品開発をする際、どうしてもコスト優先という上司の圧力に屈して、品質の悪い材料や部品を使いがちだが、そんなやり方ではどこででも出来るありきたりの商品しか出来ない。

名古屋の板長は、物を造るには製造技術がいかに大切かを教えてくれた。造り方が悪ければ、いくらいい材料を使って商品造りをやってもお客さんには喜ばれない。

 

 

何でも彼でも仕事に結びつけるのは悪い癖だと言われそうだが、そんなことをフト考えさせる三人の板前だった。


セミナー&お知らせ