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西研コラム

〈第28回〉たかが野球されど野球


2017年8月30日

皆さんはテレビのスポーツ放送では主に何を御覧になってますか? プロ野球もサッカーも、その視聴率の浮沈が激しいようで、最近では「テレビ離れ」現象でスポーツ放送全体の視聴率が低迷しているという。私はサッカーより野球が好きだけれど、そもそもテレビ自体をあまり見ないので、視聴率には寄与していない。しかし、翌朝のニュースで流されるプロ野球の結果では、贔屓チームの勝敗がやはり気になる。

 

 

山際淳司は次のようなジョークを週刊文春(1990-5-17 号)に書いていた。

インテリのあいだで、なぜ野球の人気が高いのだと思う? その答は「かれらに理解できるくらいゆっくりとゲームが進行するのは野球だけだからさ」

 

 

私が野球が好きなのはインテリだから? いやいや、そうじゃないんだなあ。物心がついて最初に見た本格的スポーツがプロ野球の公式試合だったから野球ファンになったのだと自分では思っている。しかも、東京や横浜には珍しい存在と言える“ドラゴンズ・ファン”になってしまった。

我が家は昭和 23 年(1948)6 月に福井から名古屋に引っ越して来た。で、その 5 年後の昭和 27 年(1952)、小学 5 年生の時に初めて父が中日球場に連れて行ってくれ、プロ野球を観戦したのだった。ドラゴンズの対戦相手は松竹ロビンズ。映画会社の松竹がオーナーのチームだった。

松竹ロビンスは 1950 年にはリーグ優勝し、4 番打者の小鶴 誠がホームラン 51 本を打った。1963 年に野村克也が 52 本を打つまでこれがシーズン最多本塁打の日本記録だった。その後、体調を崩し、我々が観戦した 1952 年には、ホームランも 17 本に激減し、そのせいもあってか、リーグ 7 位と低迷した。我々が観戦した試合もドラゴンズが勝っている。

松竹ロビンスは翌年(1953)に大洋ホエールズと合併し、大洋松竹ロビンスと改称したが、長ったらしい名前なので略して洋松ロビンズと呼ばれていた。しかし、洋松の時代は短く、わずか 2 年後の 1955 年には元の大洋ホエールズに戻り、93 年には横浜ベイスターズと改称した。2011 年 12 月には DeNA が球団を買収し、名前も横浜 DeNA ベイスターズとなり、現在に至っている。

 

 

話しをちゃんと元に戻してドラゴンズの話をしよう。ドラゴンズも 1950 年までは中日だったが、51~53 年の 3 年間は名古屋ドラゴンズと名乗り、54 年にまた中日ドラゴンズに戻っている。だから、我々が観戦したのは、正式には名古屋ドラゴンズ対松竹ロビンス戦ということになる。

 

 

当時のドラゴンズの主軸打者は「文ちゃん」の愛称で親しまれていた西沢道夫(ファースト)で、ジャイアンツの川上哲治と一塁手のナンバーワンを争っていた。彼はもともとはピッチャーで、1940 年には 20 勝を上げているほどの名投手だった。我々が観戦した 1952 年には首位打者と打点王に輝いた。その他の選手では、長打の杉山 悟(外野手、この年ホームラン王)、児玉利一(三塁手)、守備のいい牧野茂(遊撃手)、フォークボールの杉下 茂(投手)らが名を連ねていた。このようなすごいメンバーを揃えていたのに、その年は 3 位に終わっている。

 

 

この試合で私の印象に強く残ったシーンがあった。我々はドラゴンズ側の内野観覧席でファースト・ベースがすぐ真下に見えるという席に座っていた。松竹の攻撃、ドラゴンズの守備の回にその印象的なことが起こった。松竹の打者は誰だったのかという記憶はないのだが、バッターが一振りすると西沢の真上にファウル・フライがふらふらと上がった。西沢はグローブを上げて捕球体勢に入り、そこへボールが落下してきてグラブに当たったが、ポロリと落球してしまった。ナイター設備などない時代のデー・ゲームで、太陽が眼に入ったのかもしれない。西沢は舌をペロリと出し、頭をポンと叩いて、「しまった」というような苦笑いをした。今の言葉だと思わず「可愛い!」と言ってしまいそうな姿をすぐ目の前に見たわけで、いっぺんに西沢が好きになってしまい、それと共にドラゴンズ・ファンになったというわけなのだ。

 

 

それから 2 年後の 1954 年にはドラゴンズはリーグ優勝し、日本シリーズでも優勝を勝ち取っている。沿道の優勝パレードを見に行ったことをはっきりと覚えている。この年のパリーグの優勝は西鉄ライオンズで、豊田泰光、中西太、大下 弘という豪華メンバーでクリーンアップを組んでいた。ただ、投手陣には中日の杉下に匹敵するような存在がいなかったので、ドラゴンズが勝てたのだろう。「神様、稲尾様」と言われた稲尾和久投手が加入したのはその 2 年後の 1956 年で、それからライオンズの黄金時代に入ったのだから、54 年は中日にとってはラッキーな年だった。そんなことがあって、パリーグでは西鉄が私の好きなチームになった。

 

 

ところで、私の息子は横浜生まれの横浜育ちだから、大洋ホエールズのファンになるんだろうと思っていたが、我々には縁もゆかりもない広島カープのファンになってしまった。当時のカープは古葉監督の下で、山本浩二、衣笠祥雄、小早川毅彦、高橋慶彦らの打撃陣、北別府学、大野 豊、川口和久らの投手陣が大活躍し、いわゆる「赤ヘル旋風」が巻き起こっていた。そのため、テレビなどのメディアの露出度が高かったから、その影響で息子はカープ・ファンになってしまったと思われる。

 

 

自分自身の経験や息子のカープ・ファンとなった経緯を鑑みるに、子供の頃に強く印象に残るようなことを見聞きすると、そのチームのファンになってしまうようだ。巨人ファンが多い理由もテレビでの放送が圧倒的に多いからで、それを見て育てばどうしたって巨人贔屓になってしまうのだろうと納得せざるを得ない。

 

 

最近の若い人があまり本を読まないと言うのも、子供の頃にテレビばかり見て、本を読むという経験をしていないから、それが習い性になってしまうのだろう。

 

 

終戦後、日本語を漢字仮名書きからローマ字表記にしようと進駐軍が図ったことがある。そのお先棒を担いで、国内でも「漢字を廃して仮名文字表記にすべし」「ローマ字表記にしよう」と主張する運動が起こった。それに押されて、漢字の制限が始まり、当用漢字(1850 字)、教育漢字(771 字)が決められた。従って、それで教育を受けた戦後の子供たちは、戦前の名著、たとえば漱石、鴎外、藤村などを読む能力がなくなってしまった。新聞も当用漢字しか使わなくなり、たとえば「拉致」を「ら致」と表記するようになったから、ますます漢字能力が落ちていった。漢字表記をしてルビを振るという方法もあったと思われるが、メディアは楽な方を採った。教育漢字しか知らなかったら本など読めるわけがない。以上は大野晋が『日本語の教室』(岩波新書)で指摘していることだが、その通りだと思う。

 

 

 

子供の時の経験や教育がいかにその後を左右するかということが、プロ野球チームに対するファン心理からも分かるという、いささか強引な話になってしまった。

 

 

野球に話を戻そう。プロ野球の人気者と言えば、長嶋茂雄の右に出るものはいない。では彼は超一流の名選手だったのだろうか。野中広務、野村克也『憎まれ役』(文藝春秋)に記載の長嶋の生涯成績を下に示す。「長嶋の人気は本人の成績とは必ずしも一致しません」とこの本でも断った上で、次のような数字が示されている。

 

通算試合 2186 試合(歴代 23 位)

通算打率  3 割 5 厘 2 毛(0.3052)(歴代 14 位)

通算安打  2471 本(歴代 7 位)

通算本塁打  444 本(歴代 12 位)

通算打点 1522 打点(歴代 7 位)

 

長嶋ファンが多い理由は選手としての実績が最高だったからというわけではなさそうだ。彼以上の打者はいくらでもいたということだから。

 

 

監督としても一流とは言えなかった。現役を引退してすぐにジャイアンツの監督になったが、最初のシーズン(1975 年)は最下位だった。普通のフロントなら、監督を引退させるか馘にするかだろうが、彼ほどの人気者になると、退陣させたらフロントがファンから糾弾されること間違いない。

 

 

そこで取った対策がどんな監督でも優勝出来るような選手を揃えるという戦略で、他のチームから 4 番打者やエースをトレードするという策が採られた。最下位に落ちた翌年は、東映フライヤーズの 4 番打者張本 勲、西鉄ライオンズのエース加藤 初らを引っ張ってきた。その結果、その年は優勝を勝ち取ったのだ。

 

 

長嶋監督の第一期(1975~79 年)の成績を順を追って示せば次の通り。6、1、1、2、5 位。79 年が 5 位と低迷したのは、4 番だった張本が不調で、控えにまわったからだろう。その結果、いったん長嶋は身を引いたが、1993 年に監督として再登場した。一期目の経験から、球団が実施した二期目の補強ぶりもすごかった。1993 年以降のトレードによる補強は次のように、ほとんどが 4 番打者だった(前掲書『憎まれ役』による)。

 

93 年~2001 年の 9 年間に巨人に移籍した主力打者は―――。

94 年、落合博満(中日四番打者)

95 年、広澤克美(ヤクルト四番打者)。同年、ハウエル(ヤクルト五番打者)

97 年、清原和博(西武四番打者)。同年、石井浩郎(近鉄四番打者)

00 年、江藤智(広島四番打者)

01 年、吉永幸一郎(ダイエー DH)

 

同書が驚いたことがもう一つある。同書に曰く、

 

これら 7 人のうち、驚くべきことに、DH の吉永を除く 6 人が三塁手経験者なのです。

いくら長嶋本人が「四番サード(三塁手)だったとはいえ、この三塁手願望の偏り方は異常としかいいようがありません。その結果、巨人では三塁手や一塁手が育たなくなりました。

 

 

このようなトレードの結果、この面子なら誰が監督をやっても勝てると言われるような陣容が続いたが、それでも優勝できない年がかなりあったのだから、長嶋は監督としても希有の存在だったと言える。93 年以降の成績を順に書くと、3、1、3、1、4、3、2、1、2 位となる。

最近では、原監督が現役時代に人気者だったゆえに、長嶋と同様の監督の道を歩き、4 番打者、エース投手のトレードによる入団が続いた。

今年の高橋由伸監督の成績を見ていると、長嶋、原の後継者になるような気がする。今秋のオフ・シーズンにおけるストーブ・リーグを注目したい。

では、なぜこのような成績の長嶋の人気があんなトップクラスなのだろうか。私が思うには、彼の言動が滑稽で、憎めないヤツだと思われているからではないだろうか。彼の珍妙なエピソードをいくつか紹介しよう。このような逸話を読むと、「おもろいやっちゃな」となってしまう。

 

 

★長嶋(茂雄)が大学生の折、定冠詞 The を「テヘ」と読んだ(清野 徹『ドッキリ語録』週刊文春、1993.4.29)

★しつこくつきまとう記者に向って、

「いいかげんにしてくれ。オレにもデモクラシーがあるんだ」

これ、プライバシーのことじゃないかなあ。

もうひとつ、いきましょう。

「ジャイアンツは決してネバーギヴアップをしません」(永六輔『言っていいこと、悪いこと』知恵の森文庫)

★長嶋茂雄が平成三年夏、国立競技場で催された世界陸上の閉会式のテレビにゲストで出ていた。音楽が流れると、長嶋が「君が代はいいですねえ、僕も日本人だなァ」。それが実は「蛍の光」であった(戸板康二『最後のちょっといい話』文春文庫)。

★学生時代、英語の追試を受けることになった。そのときの出題が、I live in Tokyo という文章を過去形になおせというもの。

彼氏、迷うことなく書いたそうである。I live in Edo.(文藝春秋編『あの人この人いい話』文春文庫)

★ある父親が小学生の息子を連れだって街を歩いていた。商店街の入口に、「投書箱」が置いてあった。箱には、こう書かれていた。

「あなたの声を聞かせて下さい」

小学生の男の子は投書箱に近づくと、大きな声を張り上げた。

「おーい、おーい、おーい」(これは長嶋茂雄、一茂親子だったという)(福田健『ユーモア話術の本』知的生きかた文庫)

 

 

しかし、中日は名古屋以外では人気がないなあ。セリーグでは、私の住んでいる横浜はジャイアンツ、ベイスターズが人気だし、ヤクルトスワローズ(正式には東京ヤクルトスワローズ)も同じ首都圏だということで、結構人気がある。広島カープは本拠地が遠隔地なのに「カープ女子」で知られるように首都圏でもとくに女性に人気だ。

 

 

阪神も首都圏で人気があるが、これは関西出身者で東京に転勤などで来ている人が多いからだろう。それに、巨人/阪神戦がいつも言われるように「伝統の一戦」という間違った認識があって、巨人のライバルとしての人気があるという点も指摘しておきたい。

日本のプロ野球の最初の試合は、現在のチーム名で言えば中日対巨人なのだ。だから伝統の一戦と言うならまず中日/巨人戦を先ず挙げるべきなのだが・・・・。

半藤一利『歴史のくずかご』(文春文庫)は日本のプロ野球の開始を次のように書いている。ここに登場する名古屋金鯱軍というのがドラゴンズの前身ということは言を俟たないだろう。

 

 

2 月 9 日は、日本のプロ野球史上、とくに記念すべき日である。

000300000 | 3

230000230 | 10

これがプロ野球の歴史をかざる東京巨人軍対名古屋金鯱軍の第一戦のスコア。上が巨人軍で、つまり負けたほうなんである。

ときに昭和 11 年(1936)、まさにプロ野球の「プレイボール!」。場所は名古屋市郊外の鳴海球場。予定では 2 月 1 日から 3 連戦するはずであった。それが折からの豪雪のため延び延びになっていたとか。

 

 

氏田秀男『その時、プロ野球が動いた』(東京書店)でも、別の日に行われた名古屋対大東京(現・中日対巨人)をプロ野球の嚆矢と断定している。これはコミッショナーがそう判断したというのだから、公式見解ということになる。氏田の文章を次に示す。

 

 

1972 年(昭 47)3 月 11 日、当時の大浜信泉コミッショナーが「記録の起点は 1936年 4 月 29 日から甲子園で行われた“第一回日本職業野球リーグ戦”からとする」と決断を下したのだ。

試合開始 = 11 時 8 分、試合時間 = 2 時間 12 分、観衆= 3000 人

名古屋 030030 200 | 8 (7 安打)

大東京 100100 201 | 5(10 安打)

 

半藤が言及している試合の約一カ月半後ということになるが、これに基づいても、伝統の一戦というなら中日対巨人をまず挙げてもらいたいものだ。

古いデータになるが、玉木正之『プロ野球大事典』(新潮文庫)によれば、1989 年のペナントレースが終わった時点で、ジャイアンツ対タイガースの公式戦総試合数は、1309 試合でもっとも多い。ジャイアンツとドラゴンズの試合数は 1307 試合。また、ドラゴンズ対タイガースの試合は 1309 試合行われている。

これをもってジャイアンツ対タイガース戦がもっとも多いと書くのはおかしい。ドラゴンズ対タイガース戦も同じ試合数だから、これだってもっとも多いということになる。ドラゴンズ対ジャイアンツ戦だって、僅か 2 試合少ないだけなのだ。

 

 

ついでにもう一つ二つ憎まれ口を叩くなら、阪神は「タイガース」と名乗っているが、なぜ「タイガーズ」じゃないのか。「タイガー」の複数形は「タイガーズ」と発音すべきだろう。英語の初歩だ。

読売新聞大阪本社『雑学新聞』(PHP文庫)によると、

 

 

阪神タイガースの前身、大阪野球倶楽部が設立されたのは 1935 年で、この時に阪神電鉄の社員から愛称を募集し、「大阪タイガース」と決まりました。最初から「タイガース」だったのです。

 

とのこと。阪神電鉄は英語が不得手だったようだ。

ついでに、なぜ巨人軍なのか。他の球団は戦前ならいざ知らず、「軍」なんて表現はしていない。

牛島秀彦『巨人軍を憎んだ男 V・スタルヒンを日本野球』(福武文庫)によると次のような事情があったらしい。

 

 

ニューヨーク・ジャイアンツを退団し、サンフランシスコ・シールズの監督に就任したばかりのフランク・オドゥールが、「東京巨人軍(トウキョウ・ジャイアンツ)」と命名した。「大日本東京野球倶楽部」の名称がなぜ「東京巨人軍」になったかと言えば、名称が長すぎるし、渡米にあたって外人が発音しづらい難点があるという指摘をオドゥールから受けたからだ。ニューヨーク・ジャイアンツにあやかってトウキョウ・ジャイアンツってのはどうだろう――――。

 

 

これは昭和 10 年(1935)のことだそうだ。おかしいのは、牛島もこの本の中で指摘して

いることだが、Tokyo Giants を訳せば「東京巨人群」となるわけで、「群」が「軍」にな

ってしまっている。「オドゥールの発想とは別個に日本側が付加したものである」と牛島は

断定している。

 

 

このように見て来ると、ジャイアンツ人気、長嶋人気というのはマスメディアによって誘導されたものと考えざるを得ない。同じようなことがラグビー人気にも現れている。従来はラグビーなどメディアもほとんど見向きもせず、人気のあるスポーツとはまったく言えなかった。そのラグビーのファンが急増することになった裏には五郎丸選手の登場があり、キック前のあの独特のポーズをメディアが取り上げて煽り立てたことがあるのではないか。最近は五郎丸も怪我などで出場機会が無く、メディア登場も皆無に等しくなったので、ラグビーに触れる人も少なくとも私の周囲にはいなくなった。

 

 

このような傾向は何もスポーツだけではなく、政治や経済などの問題にも現れている。メディアに煽られて、自分の位置付けがふらつくようにはしたくない


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