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西研コラム

〈第10回〉大賀さんの思い出


2017年8月30日

上野動物園のパンダ、ランランが死んだのは 1979年9月3日のことだった。奇しくも同じ日、昭和の大名人と言われた落語家、六代目三遊亭円生も亡くなっている。
翌日の新聞の扱いは、今でも語り草になっているほどオカシナものだった。朝日新聞朝刊は、ランランの死を、第一面、6 段抜きで報じた。円生師の逝去は 23 面で小さく扱われたに過ぎなかった。
翌9月4日の日記に私は、
「昨夕、円生師逝去。返す返すも残念。同じく昨日、上野のパンダが死んだ。今朝のラジオのニュースではパンダがトップで、円生は最後だった。これはいったいどういうことだ?」と書いている(当時から私はテレビはほとんど見なかったから、ラジオでそのニュースを知ったのだ)。メディアの扱い方に疑問を呈しているわけだが、それだけでは気持が収まらなかったようで、次の日(5 日)にはさらに、「パンダは中国がまた代わりをくれるらしいけど、円生さんには代わりがない。」と、嘆いている。

 

この話には後日談がある。円生の一番弟子、五代目円楽が 2005年10月に脳梗塞で倒れ、長く高座を遠ざかっていたが、2 年ほどのリハビリの後、2007 年 7 月 25 日に満を持して国立演芸場で「芝浜」という大ネタを演じた。しかし、この日の口演は、ろれつの回らないところがあったり、声の演じ分けが不十分だったりして本人の納得いくものではなく、舞台を終えてすぐに円楽は引退を表明した。その潔さを朝日新聞の天声人語が褒めた。円楽は、自分の師匠がパンダより小さく扱われたのに、自分は生前に天声人語に取り上げてもらえ、幸せだったと語っていたという。

 

ところで、先日(2011年4月21日)元キャンディーズの田中好子が亡くなった。新聞、テレビなどのメディアは、大きく取り上げ、NHK TV でも 22 日の朝のニュースに始まり、その後数日に亘って通夜や葬儀の模様を克明に報道し、何人もの人のコメントを紹介していた。
2 日後の23日に、大賀典雄・元ソニー会長が亡くなったが、メディアの扱いは小さく、NHK TVも24日の朝のニュースでのみ、短信と言った方がいいような扱い方で触れていた。大賀さんは、コンパクト・ディスク、ミニディスクを商品化するなど、新しい商品をいくつも市場に導入した経営者というに留まらず、音楽家としてもバリトン歌手、指揮者として活躍し、東京フィルハーモニーの理事長を務めるなど、文化や音楽のために随分と尽力されてきた。それが、軽く扱われたのだから、ちょっと変だぞ、パンダと円生の時とあまり変わってないじゃないか(田中好子をパンダに喩えては失礼だが)と思ったのだった。 私がソニー関係者だからそう思うのかと、何人かの友人(ソニー以外の方々)にそんな話をしたら、「まったく日本のメディアはおかしい」と異口同音に言っていた。中には、「アメリカのある新聞は、一面の半分近くを大賀さん逝去のニュースで埋め、“技術と文化を結びつけた経営者だった”と讃えていた」と教えてくれた人もいた。

 

どうやら日本のメディアは、ある人の死が国にとってどれほど大きな損失かという視点ではなくて、その死に対して大衆(イヤな言葉だが)がどう反応するかに力点を置いているようだ。つまり、視聴率がいかに上がるか、新聞がどれだけ売れるかといったことにしか関心が向かないのだ。つい最近も、AKB48 の“総選挙”の結果を知らせる号外が出たようだが、「号外を出すような問題か?」と言いたい。
因みに、4月末に Google で検索してみたら、大賀さんは 40 万 8 千件、田中好子は 102万件がヒットという数字が出てきた。ヤレヤレ。

 

まあ、世間やマスコミの奇妙なレスポンスを嘆いていても仕方がないから、私の大賀さんへの個人的な想い出を紹介しつつ、ご冥福を祈りたいと思う。
大賀さんとは、事業計画とか研究開発計画の説明のために時々会長室にお邪魔して話しをしたことはあったが、それ以外で身近に感じたケースでよく覚えているのは、1995年11月5日の一件だった。前日(11月4日)の未明に、リチウムイオン二次電池(LIB)の製造工場(福島県郡山市)から出火し、建物や製造設備に大きな被害が出た。私はアメリカに出張していて、4日夕刻に帰国して家人から知らされた。対策会議に出席すべく、翌5日早朝、私は急遽工場に駆けつけた。大賀さんも同じ日の午後、出先の北海道からソニーの自家用飛行機で文字通り飛んで来られた。
焼け跡を視察された大賀さんは、「人身事故がなくてよかった」「カスタマーに迷惑がかからないように早く生産を再開するように」とだけ言い、火災を出したという失態には一言の叱責もなく東京に帰られた(もちろん、事態が落ち着いてからは種々の議論があった)。
その後、工場の修復も終わり、次に会長が郡山に来られたとき、工場見学をされたので私が大賀さんを案内し、新に導入した設備などの説明をした。話題は自然に、なぜ火災が起こったのかということになった。「完成したLIBを入れておくトレイの材質が、我々技術陣からは難燃性樹脂製にするようにという指示を出したのに、コストの問題から燃えやすいプラスチックになっていたことが火勢を激しくした」と私は指摘した。最後に「ナンネンでなくて、ザンネンでした」と付け加えたら、「くだらんシャレを言うな」と叱られた。

 

大賀さんからもっとも強烈な印象を受けた出来事が1994年8月19日にあった。当時、ソニーは日産自動車と電気自動車(EV)の共同開発を行なっていて、そのEVには我々が開発した大型(100Ah)の LIB が使われていた。当日は、EV試作車の試乗会が日産追浜事業所のテスト・コースで開催され、大賀さんをはじめソニーのトップがヘリコプターで追浜に飛来された。日産からも首脳陣が参加し、先ず大きな会議室に一同が会してセレモニーめいたことが行われた。
席上、私がLIBについてのレクチャーを日産のトップに対して行うことになっていたが、トップ間の挨拶や社交儀礼などで時間を使ってしまい、残り時間が少なくなってきたため、日産側の事務局が私に「時間を切り詰めてやってほしい」と耳打ちしてきた。そこで、用意してきた OHP(当時はパワーポイントはまだ一般的ではなかった)をかなり端折って、手短に話を進めた。そうしたら、大賀さんが突如立ち上がり、「西君、そんな説明じゃダメだ」と言って、私から指し棒を取り上げ、自らがすべての OHPを使いながら、LIB 技術の説明を始めた。何時の間に勉強されたのだろうかと驚くくらい LIB のテクノロジーを理解しておられ、説明は的確だった。

 

1996年の12月16日にはLIBの製造数が累積1億本に達したことを記念して郡山工場で式典が催された。「1億本目の電池が今ラインで誕生しました」と、現場の女性がその電池を大事そうに持って式場に駆け足で入ってきて大賀さんに手渡すというチョットくさい場面もあったが、大賀さんも大層喜んでおられた。
式のあと会議室に場所を移し、工場の主な人たちと昼食を共にして頂いた。そのとき、大賀さんは私に、「西君はこれで満足しないで、もっと安全な電池を作ると言う仕事がまだ残っているよ」と言われた。
上に書いた難燃のダシャレもそうだが、一言多いのが私の常。「私は間もなく役職定年になるので、そういう課題は若い人に仰って下さい」と答えた。当時私は55歳を過ぎており格付けは部長補佐、役職定年までは残すところ1年ほどだった。ソニーの定年は60歳だが、格付けによって役職定年が決まっており、たとえば、格付けが課長だと55歳、部長補佐は56歳で役職を離れ、無役にならないといけなかった。つまり、あと1年ほどで開発部長というポストを手放さなければならなかった。そこであんな受け答えをしてしまった。

当時の電池部門のトップだったXさんに後日聞いた話によると、記念式典の数日後、大賀さんが「西君は今の格付けはどうなっているのか」とXさんに訊いたと言う。「部長補佐」だと答えたところ、「どうしてそんな地位に留まっているのか」と驚かれたそうだ。私には技術的、品質的に納得できないような施策を上から言ってくると反対を唱えるという姿勢を貫いたため、電池の担当役員から嫌われ、そのせいか昇進も遅かった。Xさんは私を評価して下さっていたが、もう一段上の人から白い目で見られていたようだ。
大賀さんは私のことを LIB の立役者ということで高く評価していて下さったということなのだろう。ありがたいことに、それから3カ月後の97年3月に部長、4月に副理事と昇進させて下さった。そして、6月27日の株主総会で執行役員ということになった。わずか半年で部長補佐から部長代理(これはスキップ)、部長、副理事、理事(これもスキップ)、役員へと5段階を駆け上ったことになる。

 

役員昇格については、株主総会の直前、5月21日にカナダのエドモントンに出張していた折、社長から電話でその知らせを受けた。プレス・リリースの前に本人に知らせねばならないからということだったが、その時の社長の言葉は忘れられない。「大賀さんがどうしてもと仰るので」と、自身の意向ではないと言わんばかりの悔しそうな口ぶりだった。私は社長からもあまり評価されていなかったようだ。
大賀さんは、「役員ということになると、ジェネラリストばかりがなるのはおかしい。技術一筋で貢献があった人も役員にしよう」と考えられ、私と同時に2人の技術屋が役員の仲間入りした。

 

話は飛んで、2009年2月9日になる。2006年に私はソニーを退職していたが、その日、たまたま元副会長のYさんと会食する機会があった。店に行くまでのタクシーの中で、いきなりYさんが、「最近、西さんの噂話をしたばかりだ」と切り出してきた。「悪い噂でしょう?」と言ったら、そうじゃないという。「先日、ソニーの某トップと話しをしていたら、西さんの現役終盤の上司にあたるZ副社長には技術に対する理解力がなくて、西さんのような優秀な人の評価をきちんとしなかったという話しになった」というのだ。さらに続けて、「僕と大賀さんが、西さんが長く会社にいられるように計らった」という。どうやら、常務から上席常務に昇格したときのことのようだ。あれで、定年が2年延びたのだった。

私は、「自分を見ていてくれる人が誰か必ずいる」というのを胆に銘じて、上司に嫌われても、自分の考えを貫いてきた。
理解者が必ずいるということにはじめて気づいたのは、入社直後から8年間従事した燃料電池プロジェクトが中止になって、音響部門に異動になったときのことだった。
当然、音響などという分野ははじめての経験で、周囲の目も「アイツに音響の何が分かるのか?」というものだった(被害妄想かな?)。そんなある日、音響部門の特許を担当している人が、自己啓発のために、社外で開催された特許セミナーに出かけた。その人がセミナーから帰って来て次のような話しをしてくれた。
講習会で、“特許出願状況から他社技術動向を追いかける”というテーマがあった。ソニーの燃料電池(FC)開発を特許から読み取るというのが例題として出された。「ソニーの FC 技術はずいぶん遅れていた。ところが、ある時を境に、良い特許が次々と出されるようになった。発明者を見てみると、それは“西”という人物がチームに加わってからのことだった」と講師が語ったというのだ。それ以後、音響部門の人たちの私を見る目が変わり、仕事がやりやすくなった。

 

社内ではあまり評価されなかったFCプロジェクトだったが、社外とはいえ、見ている人は見ているんだ、と心を強くした。ソニー人生の最後の段階で大賀さんという理解者が存在したということはラッキーだったが、「ちゃんと見ていてくれる人が必ずいる」という信念が再び証明された場面でもあった。

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