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西研コラム

〈第21回〉ホテルの光ヤドの雪


2017年8月30日

朝日新聞の投稿欄に「マニュアル対応」と題した次のような笑い話が載っていた。

 

 

妻と日帰り旅行の帰り、猫の夕食用に缶詰を買いにコンビニへ。選んだ猫缶をレジに持って行くと、若い店員さんがにっこり笑って「おはしをおつけしますか?」

コンビニやファミレスなどの店員によくあるパターンで、状況をよく判断しないで、オウム返しにマニュアル通りの対応をしてしまうのだ。接客の基本をちゃんと教えないで、マニュアルをポンと渡しておいて、その通りやればそれで良しとする風潮の結果だ。

 

 

「えっ! こんなことにすらマニュアルが要るの?」という例を私自身も最近経験した。先日、ちょっとした要件があって母校の応用化学関係の或る研究室を訪れた時に聞いた話だ。准教授(私にとっては研究室の後輩に当たる)と雑談しているうちに彼の口から出た言葉を聞いて私は呆れてしまった。

そこは応用化学の研究室だから、化学実験を学生はしょっちゅうやらないといけない。ある日、准教授が実験室を視察した時のことだが、あまりにも実験台上が乱雑だし、汚れ放題といった状態だった。そんな有様ではコンタミなどで実験結果に悪い影響が出かねない。「実験台は整理整頓をしっかりやり、たまには雑巾を絞ってきれいに拭くように」と彼が学生に意見したのは当然だろう。

ところが、学生から返ってきた言葉は、「アノォ~、雑巾ってどうやって絞るんですか?」だったという。准教授が愕然としたのは無理もない。いったい、家ではどういう教育や躾をしているんだろうかと嘆かわしく思ったという。

そういえば、最近よく言われるモンスター・ペアレントの言動として新聞に紹介されていた話に似たようなものがあった。学校では教育の一環として掃除当番というのがあるけれど、ある親が担任の教師にクレームを付けたというのだ。曰く、「我が家では、この子には掃除をさせたことがないから、掃除当番をやらせないようにして下さい」

 

 

当コラムの第 4 回にも引用したことだが、吉村 昭『蟹の縦ばい』(中公文庫)の中の『薬品と車』と題するエッセイに次のようなことが書いてある。

関東大震災の直後、すぐれた専門家たちが、それぞれの分野で被害状況を調査し、今後の予防法について研究した。その結果は、「震災予防調査会報告」全六巻の大著として残されている(中略)。

地震が起ったら、すぐガスの元栓をしめろ、ということがポスターにもなっている。むろん、それは正しいが、ここで忘れてはならぬことは、関東大震災に伴う火災の第一の原因は、薬品の落下によるものであったということである。一般に、関東大震災が起った時刻が正午近くで、昼食の炊事をしていた七輪の火などが火災を起したと言われているが、最大の発火原因は薬品であったのである。学校、試験所、医院、薬局等にあった薬品類が棚から落下し、発火した。特に学校の理科室からの出火が最も多かった(後略)。

だから、上記の大学の学生やモンスター親の子供のように掃除がダメだとか、整理整頓がなっていないということを軽く考えてはいけない。大事に至るネタをはらんでいるのだ。

 

 

上の二つの例は極端かもしれないが、最近の若い人は多かれ少なかれ、マニュアルがあって、すべてお膳立てしてないと、何も着手できないのではなかろうか。研究開発の分野ではこれでは困る。

我々の時代は、何から何まで自分で工夫せねばならなかった。私の卒論での経験を書いてみよう。

私が大学の卒論で与えられたテーマは、亜鉛とアンチモンの化合物半導体を作ってその特性(例えば、p-型か n-型かなど)を調べよというものだった。ZnSb などまだ誰も手掛けたことがなく、手探り状態で進めなければならなかった。

まず ZnSb の単結晶を作らなければならない。現在ならどうするだろうか? おそらく、単結晶作成装置を購入して、それを使って結晶成長をさせるのだろう。何の苦労もいらない。

 

 

私の場合はそうはいかなかった。まず、装置を自作することから始めなければならなかった。単結晶作成装置の組立なんて未経験だけに苦労した。教授の指定は「引き上げ法」でやれというものだった。「引き上げ法」というのは溶融している原料表面に何らかの種結晶を接触させ、ゆっくりとそれを引き上げて行くというやり方だ。

坩堝(ルツボ)に Zn と Sb を入れて、ヒーターで加熱して溶融させるのだが、Zn / Sb の比率はきちんと 1 / 1 じゃないといけないのか、炉温は何度がいいのか、種結晶には何を使うのか、などなど未知のことばかりだ。

半年以上かけて装置試作、引き上げ実験を繰り返し、これならと思われる装置が完成したのは卒論締め切りの 2 ヶ月ほど前だった。論文を書くのに一ヶ月ほどは欲しいから、単結晶作りのための時間はあまり残されていない。

そんな苦労を重ねてようやくそれらしきものを作り、X線解析を行った。X線回折像をとれば単結晶かどうかが分かるのだ。X線解析用の試料作りは自分でやり、X線照射は資格のあるオペレーターにやってもらった。

データを見て、どういう素性の結晶であるかは、自分で参考書と首っ引きでやったが、残念ながら単結晶ではなかった。それでも、R&D のやり方というものをじっくり学ぶことができた。

今の大学では、学生の実験、研究は、装置も出来合いのものを使い、データ解析もコンピュータ任せで、自分は単なるオペレーターで終わってしまっているのではないか。

 

 

卒論だけではない。授業の一環である学生実験でも同じだった。例えば、有機合成実験はガラス細工により合成装置を作ることから始めなければならなかった。反応がどこでどのようにして起こるのか、反応温度はどのくらいなのか等々、合成反応について調べ上げないと適切な装置はできないから、事前の勉強が必須だった。

このようにして合成された有機化合物を赤外分光とかガスクロなどで分析し、得られたデータを参考書と首っ引きで照合して目的のものが出来上がっているのかどうかの解析も行わなければならなかった。

ところが、今ではガラス細工などせずに、市販の有機合成装置を使って合成し、データ解析もコンピューター・ソフトを使ってあっという間に答えを出してしまう。教える側もこの方が面倒がなくていいから楽な方に流れてしまう。便利ではあるが、有機合成とはどういうものなのか、分析はどのように行えばいいのかなど、化学者として身につけておくべき重要なことを得る機会を失うことになる。

「実験科学はすべての自然知の頂点であって、きわめて重要な実際上の効果をもあげる。それは他の諸科学の女王であり、これらはそれの侍女である(ロジャー・ベーコン「大著作」)」という言葉を噛みしめてもらいたい。

私が企業で現役だった時、新入社員に開発テーマを示して、これをやって欲しいと言っても彼らはまったく動けなかった。上に書いたように学校で肝心なことを経験していないから、どのように仕事を進めていいのか分からないのだ。「こうやりなさい」と言って、マニュアルを作って渡せば、それに従って見事にこなすのだが・・・・。

けれど、私がソニーに入社した頃、半世紀ほど前の話だが、当時社長だった盛田さんは、「会社は学校ではない」と常々おっしゃっていて、先輩や上司が若い社員に何か訊かれても黙っていなさい、決して教えてはならないと戒めていた。誰かに訊いて答えを得ても、本人のためにならない。成長するためには自らが考え、勉強して覚えるのが最善の道だというのだ。

だから、”最近の若い人”は R&D の基礎となる訓練が足りないまま、実戦場に出てきているのではないかと思う。そして、分からないことがあれば、安直に先輩や上司に訊いたり、あるいはネットに頼ってしまう。

マイケル・クライトン(『ジュラシック・パーク』の作者)は、「全世界を電子ネットでまとめあげようとする考えは精神の大量絶滅にほかならない」と主張している。知的多様性が消滅するから、恐ろしいツケをもたらすというのだ。

谷岡一郎も『データはウソをつく』(ちくまプリマー新書)の中でインターネットの問題点を指摘している。

 

 

現在、インターネットで発信されている情報のほとんどは、「ゴミ」です。使いこなすには、その前提となる能力が必要なのです。その前提となる能力は、少なくも三つあります。まず基礎となる「教養」がひとつめ。そして「リサーチ・リテラシー」と私が勝手に呼ぶ、事実や数字を正しく読むための能力。最後にゴミの中から本物を嗅ぎ分ける能力で、私が「セレンディピティ(serendipity)」と呼ぶ総合的な思考力の三つです。「リサーチ・リテラシー」とは、メディアなどのリサーチに対し「ツッコミを入れる能力」です。

セレンディピティとは、辞書的説明では「掘り出し物をみつける才能」とあります。私は「嗅ぎ分ける能力」と訳していますが、必要なものだけでなく、不要なものを嗅ぎ分ける能力をも意味します。

 

 

では、この三つの能力を磨くにはどうすればいいか。私の考えではたくさんの本を読むことだと思う。

戸板康二『新ちょっといい話』(文芸春秋)に、小田島雄志がコラムで嘆いていたとして次のようなことを引用している。曰く「むかしの学生は、とにかく本を読んだ。今の学生はしない。そのかわり、旅行だけは、熱心に実行する。しかし、それだけでは、学問は身につくまい」と。小田島はその文章を「ホテルの光ヤドの雪では、文よむ月日も重ねられない」と締めくくっているそうだ。

 

 

発明王・エジソンはものすごい読書家で、ジャンルを問わずさまざまな本を読んだという。

エジソンが知識の量にこだわったのは、知識そのものを重視したからではなく、結果としての知識の量を生みだす「知識欲」と「記憶力」を重視したからだと、齋藤孝『最強の人生指南書~佐藤一斎「言志四録」を読む』(祥伝社新書)に書いてある。

同書には同じ佐藤一斎の言葉として、「学を為す。故に書を読む」が引用してあり、その意味は、「読書は学問のための手段だということ」だという。

モンテーニュもその著『エセー』の中で、「よけいなことでも学ぶほうが、何も学ばないよりはましだ」と言っているが、私はこの言葉を拳拳服膺して、ジャンルを問わず手あたり次第に本を読んで、エジソンの足元に少しでも近づこうとした。

我々が学生の時代は多かれ少なかれ皆、同じような志だったと思う。現在では電車の中の人を見ていると大部分の人がスマホをいじっていて、本を読んでいる者など滅多に見ないが、我々の時代は本を読んでいる者が圧倒的に多かった。脳科学者によると、テレビ、テレビ・ゲームなどは脳の活性化にはつながらず、むしろ害があると指摘しているが、スマホもおそらく同類だろう。

私自身を振り返って見ると、学生時代には空いている時間はほとんど本ばかり読んでいた。『私の読書法』(岩波新書)に、「一ヶ月一万ページを読むことを自分に課せ」と書いてあるのをみて、それを実行した。お金が余れば本を買っていた。だから、学生時代には合コンだのデートなどというものは一度もしたことがなかった。テレビも結婚するまで買わなかったから 30 歳ころまでほとんど見なかった。ソニーに勤めていてテレビを買わなかったのだから悪い社員だったと言われたら返す言葉もない。

会社に入り、仕事が忙しくなると本を読む時間が少なくなっていったが、空き時間があれば出来る限り本を読むようにしていた。現在、一ヶ月にどのくらい読んでいるかを調べてみたら 3 千ページくらいにしか達していないから、読書家とはもはや言えないだろう。

しかし、今でもテレビはあまり見ない。朝、食事をしながらニュースを見るのと、あとは、めったに本格的なものは放映されないのだが落語を見るくらいだ。上に学生時代はレジャーめいたことはなにもしていなかったように書いたが、白状すると、新宿末廣亭が学校からわりあい近かったこともあって、年数回は落語を聞きに行っていた。板倉徹『ラジオは脳にいい』(東洋経済新社)という本によると、落語を聞くことも脳の活性化につながると書いてあるから、あながち悪いことではなかったようだ。

 

 

盛田さんはまた、「会社は遊園地ではない」とも言われた。会社は当たり前のことだが、仕事をする場であって、社員旅行のようなレクレーションとかクラブ活動のようなものは極力少なくせよという考えだった。

この考え方でいくと、「学校は学ぶところである」、「学生は学ぶ人の意味である」ということを肝に銘じるべきで、それが頭にあれば読書がメインになり、スマホなどは従となるはずだ。ところが、今やまったく反対になっていて、スマホが主で読書など二の次になっている。

本にしてもマンガばかり読んでいたのではダメで、マンガはおやつ、主食はちゃんとした本だということを弁えていなければならない。だから、あくまでも読書が主食で、スマホはおやつなのだが、今や主客転倒の状態だ。

本来おやつであるべきスナック菓子とかファスト・フードが主食のようになっていて、きちんとした食事をしない人も増えているようだが、これが著しく健康を損なうということは多くの医者が指摘している。同じように、スマホを主食にすると、脳の健康に悪影響を与えるのだ。

学校に通っているのだったら、本分である勉学をメインに持ってくるべきだし、会社や研究機関で R&D をやると決めたら、それに役立つことを中心にやっていくべきだろう。

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