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西研コラム

〈第31回〉三度あることは


2017年11月16日

福田健『ユーモア話術の本』(知的生きかた文庫)に「結婚」と題する次のようなジョークがあった。ジョークなんていうものじゃなく、私にとっては身につまされる話だ。

「おめでとう。今日はきみの生涯でもっとも幸せな一日だ」

「しかし、ぼくが結婚するのは明日だぜ」

「だから、今日がもっとも幸せな日だと言うんだよ」

 

いけない、いけない!「災害」について書く積りなのに、「妻害」のことをついつい書いてしまった。ここで心を入れ替えて、真面目に「天災」「災害」について議論しよう。

「災害」についてのジョークは、松田道弘編「『世界のジョーク事典』(東京堂出版)に載っていた。

国民の生活実態を視察していた大統領は、私の家庭を訪ねて家内と彼女の母に会った後、ただちに我が家を災害特別地域に指定した。

あれっ? 「災害特別地域」という言葉に騙されてしまった。これもまた、「妻害」関連の話だったか。

今度こそ慎重に進めよう!!

 

一度このカラムにも書いたことがあるが、私は、福井市に住んでいた昭和 23 (1948)年に福井大震災に遭遇している。6 月 28 日に起きたこの地震は、マグニチュード 7.3、死者 3892 人,家屋の全半壊約 4 万 7 千軒、というものだった。それまでは、気象庁は震度 6 を地震の最大規模としていたのだが、福井地震はそれを遥かに超えた規模のもので、同庁は新たに震度 7 というのを議論せざるを得なかったほどだった。実際、翌年(1949)に震度 7 というスケールが決められている。

ところが、実は、私はそれ以前に、大きな地震を 2 度経験しているのだ。二つとも太平洋戦争中のことで、軍による報道規制が厳しかったため、被害状況はほとんど公表されなかった。最近、木村玲欧という人が『戦争に隠された「震度7」』(吉川弘文館)という本を出版し、その全貌がやっと明らかになった。

一つは、1944 (昭和 19)年 12 月 7 日、午後 1 時 36 分の東南海地震で、当時私は 3 歳の可愛い坊やで、名古屋に住んでいた。この地震は、紀伊半島の沖合、いわゆる「南海トラフ」と呼ばれる水深 4000 m 級の深い溝で発生した、「海溝型地震」というものだった。上掲書によるとマグニチュード 7.9 という大地震で、死者・行方不明者 1223 名という被害が出た。その内訳を見ると、愛知県 438 人、三重県 406 人、静岡県 295 人、その他 84 人だった。愛知県で 400 人を超える死者が出たくらいだから、名古屋も大きな揺れに襲われ、幼児だった私は立っていることができず、廊下を這って母親のもとに逃げ込んだことを覚えている。

 

さらに、そのわずか 37 日後の 1945 (昭和 20)年 1 月 13 日に三河地震と呼ばれる地震が愛知県を襲った。三河地震は愛知県東部の三河地方で発生した「内陸型(直下型)地震」だった。午前 3 時 38 分のことで、マグニチュード 6.8 だったそうだ。愛知県と静岡県の一部地域で震度 7(この時代には上に書いたように、震度 7 という尺度は存在していなかったはずだが、この本では、本のタイトルを含めそのように書かれている)の強い揺れに見舞われ、三重県尾鷲町(現・尾鷲市)では最高 9 m の津波が襲来した。

被害は、現在の愛知県安城市南部から西尾市を経て蒲郡市に至る距離約 20 km × 幅 10km の狭い範囲に集中し、死者は 2308 人だったという。名古屋は安城から 20 km ほど離れているだけだから、当然、かなり大きな揺れに見舞われた。

立て続けに二つの大きな地震を名古屋で経験したけれど、幸い我家には大きな被害はなかった。

三度目が最初に紹介した 1948(昭和 23)年の福井大震災で、我々は福井市内に住んでいたから大変だった。家具が倒れ、大きな揺れで足許が掬われる中を裸足で外に飛び出した。屋根瓦がバラバラと落ちてくるし、家の脇を見ると道路には大きな地割れが生じていた。何かの落下物に当ったのか、頭から血を滴らせた人が家の前を通りかかった。

マニチュード 7.3、死者 3892 人,家屋の全半壊約 4 万 7 千軒という甚大な被害が出た。私の級友が一人、倒れた家の下敷きとなって亡くなっている。

 

当時、我々が通っていた学校は福井市立旭小学校という名前で、そのもとをたどると、福井藩 13 代藩主が、文政 2 年(1819)に旭地区の桜の馬場というところに創設した学問所「正義堂」いう、歴史の古い、由緒あるところとのことだった。

2007 年 4 月 8 日、約 55 年ぶりに旭小学校を訪ねる機会が私に恵まれたので、行ってみた。もちろん、校舎は昔の木造から鉄筋コンクリートの立派なものに建て替えられていた。驚いたのはある人物の胸像が校庭に設置されていたことだ。松尾伝蔵像と書いてあり、旭小の出身の人物だそうだ。松尾については、在学当時、何も聞かされていなかった。

歴史書を紐解いてみると、この人物は岡田啓介首相(1868~1952 年)の妹の夫、つまり、義弟だったんだそうだ。岡田首相と風貌が似ていたため、二・二六事件(1936 年)のときに、「昭和維新」を掲げる叛乱軍に首相と見間違えられたが、逃げもせず従容として首相の身代わりとなって殺された。ちなみに、岡田首相も旭小出身だそうだ。

松尾の胸像(2.5 メートル)は、地元の「旭・社会教育会」というところが、昭和 40 年(1965)に旭小学校に建立したのだという。私の在学中(1948 年 4 月~50 年 6 月)にはなかったわけで、知らなかったのも当然だ。

しかし、なぜ松尾を崇めるのか。たとえば、日本の地震学を切り開いた偉大な学者、大森房吉(1868~1923 年)も旭小出身ということだから、校内に置くのなら、松尾伝蔵なんかより彼の銅像の方が学校には相応しいと私などは思うのだが、どうだろう。

 

話が脇道に逸れてしまった。回れ右! 上記のように、福井大地震の経験から気象庁が震度 7 というクラスを作ったと言われるほど、つまり、従来の最高震度とされていた 6 を越えた、それまでの観測史上最大の地震だった。福井平野の中心部と北部では建物の倒壊率が 90% を超え、その南に位置する福井市は倒壊率 80% 程度だったという。

阪神淡路大震災はマグニチュード 7.2 で、死者がおよそ 6500 人だったそうだが、それと比べると、地方の小都市で、しかも終戦直後の人口が遥かに少なかった地域でこれだけの死者が出ているのだから、地震の大きさが理解できるだろう。

記録によれば、震源地は県北部の坂井郡丸岡町(現在は坂井市)で、被害のほとんどが、そこから南へ 60 km(福井市を経て今立郡まで)幅 20 km という狭い範囲に集中したという。こんなピンポイントみたいなところに住む破目になって地震に遭ったのだから、私はよほど鯰(ナマズ)に慕われていたとしか思えない。現在だったら、自分の方からナマズの方に近づいているから、それで地震に襲われるということが今後あるかも分からない。なんせ、最近はナマズ料理を食べることが多いからなあ。

最初は、North Carolina の Ashville というところに出張した時に、「アメリカではよくナマズを食べるけど、美味しいよ」と言われ、Beaver Lake Seafood and Steak という名前のレストランで、生まれて初めてナマズを食べ、美味しくてすっかり気に入ってしまった。それからしばらくして、Washington DC に出張した際にも、Gadsby’s Tavern という店で、やはりナマズを勧められて食べている。さらに、国内でも岐阜に仕事で行ったときに、羽島市の木曽川近くの店、「魚勝」がナマズ料理で有名だと聞き、ナマズのコース料理を平らげた。

このように、近頃ではこちらの方からナマズに摺り寄っており、しかも彼らを食い散らかしているという状況だから、恨みを買って、四度目の被災ということがそのうちにあり得るかもしれない。

 

福井に話を戻し、手元の資料で見ると、昭和 25 年の人口は、福井全県で 75 万強だったそうで、23 年はそのたった 2 年前のことだから、似たような人口だったと思われる。被害は狭い地域に限定されたというから、死者はほとんどが県内の人だったと考えられ、県民のおよそ200 人に 1 人が亡くなった計算になる。この死者密度の高さは阪神淡路どころではない。

県が震災対策本部を設けたのが、3 日も経った 7 月 1 日になってからだったそうで、混乱ぶりがうかがえる。

地震発生は 16 時 13 分(当時は米軍に従ってサマー・タイムが用いられており、その時計で言えば 17 時 13 分)で、火災により 3851 戸が消失したそうだが、時間がもう少し、たとえば、30 分ほど遅かったら、夕食の支度の時間帯に入り、それ以上の大火災となって、関東大震災がそうだったようにさらに被害が拡大しただろう。

家の前の道路には大きな亀裂が幾筋も走り、落下物に当たったのだろう、頭から血を流した人が通りかかる。家の中は危ないから今夜は外で寝ようということになって、余震の合間を縫って親が家の中から蚊帳を持ち出してきて、それを庭に吊ってその中で蚊を避けながら一夜を明かした。

今なら、公民館や学校といったしっかりした大きな建物に住民を避難させるということになるのだが、あの頃はそんな施設は全然なかった。発展途上国での最近の大地震のニュースを見ていると、戸外でテント生活する被災者が映し出されるが、福井地震の時はテントさえなかったのだから、始末が悪かった。

 

この地震の直後(一カ月後)に、福井は大洪水に見舞われた。地震のほとぼりも冷めない頃から、土地の古老たちが、「大地震の後には必ず洪水が来るぞ」と話しているのを母が耳にしてきて、我家でもひとしきり話題になった。両者にどんな因果関係があるのか分からないし、単なる言い伝えだと親たちにもあまり気に掛けている様子はなかったが、地震ときびすを接するように 7 月に大雨が降り、家の近く、我家から歩いて 10 分くらいのところを流れていた荒川(足羽川の支流)が氾濫したのだ。よく洪水を起こす川なので、荒れる川、すなわち「荒川」と名付けたと言われたほどの暴れ者の川だった。

本州南岸に停滞した梅雨前線の活動が活発になり、7 月 22 日から雨が降り出し、24 日には若狭湾沖に発生した低気圧により昼頃から雷雨が激しくなった。福井では正午前後の 2 時間半に 55 mm の降雨を記録したという豪雨だった。25 日も雨が降り続き、地震で弱くなっていた九頭竜川などの堤防が決壊し、市内の浸水家屋は 7000 戸、被災者 28000 人に達した。九頭竜川や足羽川の流域全体では、死者 156 人、流失・損壊家屋 2955 戸という被害が出たという記録が残っている。25 日夜にようやく雨が止み、また九頭竜川の下流で堤防を切り開いたため、福井市内の浸水はようやく引き始めた。

この洪水の経緯は次のようなものだった。陽が沈む直前で、そろそろ暗くなりかかる頃合だったが、玄関の引き戸の隙間から水が三和土(たたき)にチョロチョロと入り始めた。次第に水位が上昇し、すぐに上がり框(カマチ)に近づいてきた。荒川が氾濫したらしい。これは大変だというので、畳を上げて押入の上の段に入れ、その上に濡れては困る家財を積み上げていった。水は容赦無く床を越え、我々も押入の上段に登らざるを得なくなった。

こういう災害のニュースでよく、「住民は不安な一夜を過ごした」などという紋切り型の表現を見聞きするが、まったくその通りの夜だった。水は床上数十センチまで達し、押入の上段にもう少しで届くというところまでになったが、有難いことに、その後は次第に引いていった。上段に達していたら、冗談(上段なのに!)ではなく我家も危ういところだった。

家には戦前から使っていた古いラジオが一台あるにはあったが、停電のため使いものにならなかった(電池で動くラジオなんて当時はまだなかった)。したがって、ニュースや情報の類はまったく入ってこなかったし、何らかの手段で洪水警報や避難勧告が住民に知らされるということもなかった。まだ夜には早く、就寝してはいなかったけれど、寝耳に水としか言いようがない出水だった。

だいいち、自主的に避難しようにも近くに高台とか大きな建物などはまったくない土地柄、時節柄(終戦直後で掘っ立て小屋ばかり)だったから、座して運を天に任せるしかなかった。家に水が入り始めても救助の手が差し伸べられるわけでもなく、もしあのまま増水が続いていたら、付近の住民は全員洪水に押し流されるしかなかっただろう。

床上まで水が入ってきた家の中で、じわじわ上がる水位を見ながら、ただただ水が引くのを祈るばかりだった。救援活動がある程度はシステマティックに出来るようになっている現代の人達にはこんなことは想像もできないだろう。

あれからおよそ 60 年経った 2007 年にたまたま福井出張の機会があり、暇を見つけて当時の我家近くを流れていた荒川を見に行き、写真に収めた。下にそれを示したが、護岸工事もしっかりなされ、橋もコンクリート造りになっている。当時は木製の架け橋のようなもので、小学校低学年の私が一人渡っても揺れがもの凄く、皆は「ガタガタ橋」と呼んでいたほどだ。こんな可愛らしい川でも大暴れして我々を困らせたのだ。可愛いからと言って心を許してはいけない。女性とまったく同じですね。

大地震、大水害の翌々年(1950 年)の夏に我家は、あまりいい思い出の残らなかった福井を引き上げて名古屋に引っ越し、それから 7 年間ほど名古屋に住んだ。名古屋と水害と言えば、いやでも伊勢湾台風が頭をよぎるが、我々はその虎口は逃れている。伊勢湾台風は 1959 年 9 月(26 日に紀伊半島に上陸)のことだったが、我家はその 2 年前の 1957 年夏に札幌に移転していた。しかし、名古屋の友人と手紙のやり取りをして、悲惨な状況はつぶさに聞いた。当時高校 3 年生だった同級生たちは、遺体の収容作業などを手伝ったという。なにしろ、死者約 5100 名(うち、名古屋市内で 1900 人余)という甚大な被害だったのだ。

阪神淡路大震災、東日本大震災では、被災者、とくに子供たちの心のケアが云々されたけれど、福井のときには、心の傷だとか心のケアなど口にする人もなかった。それにもかかわらず、小学一年という頑是無い子供の集まりだったわがクラスメートの誰一人として、精神的に参った者は出なかった。私自身も何のトラウマもない。

さらに付け加えれば、地震と洪水のわずか 3 年前の昭和 20 年の 7 月 19 日には米軍の大空襲を受け、市内の 95 パーセントが灰燼に帰し、約 1600 人の死者も出ている。つまり、戦災、地震、洪水のトリプル・パンチを 3 年間という短期間に食っているにもかかわらず、子供たちの心は潰れなかった。私の個人的なことを書き加えれば、あの大地震の前年に大病を患って大手術を受け、医者からは「生存の確率は極めて小さい」と言われたと母が後に教えてくれたほどだった。でも、私の心も常にシャンとしていた。あの頃は皆、精神的にタフだったのか、それとも、今の子供たちが軟弱過ぎるのか。

 

小学館日本大百科全書(全 26 巻)には戦後の日本で起きた大災害のリストが載っていて、新潟地震(1964 年、死者 26)、宮城沖地震(1978 年、死者 28)、日本海中部地震(1983 年、死者 102 人)は記載されているけれど、桁違いに大きな被害のあった福井地震には触れていない。古いことだからと言われそうだが、その 2 年前(1946 年)の南海地震は、福井より被害は小さいのにちゃんと載っている。

毎年、1 月 17 日になると、阪神淡路大震災の追悼ニュースが流れるが、福井地震の 6 月 28 日は誰も言及してくれない。阪神淡路地震の 3 年後の 98 年は福井地震の 50 周年に当たったが、どのニュース・メディアも触れることはなかった。

だから、これからどんどん時間が経つと、1 月 17 日も同じように忘れ去られてしまうのではないかと私は懸念するのだ。その後、さらに甚大な被害が出た東日本大震災が起こっているから、そちらの方にどうしても意識が行ってしまうだろう。当カラムで一度使ったことがあるが、敢えて日本大百科全書のそのデータを再掲しよう。

「二度あることは三度ある」というが、上述したように私は大きな地震にすでに三度も巻き込まれているから、もう四度目はないということなのだろうか。たしかに、その後も大地震に遭遇しそうになったことはあるが、虎口を脱している。

例えば 1994 年 12 月 28 日には、青森県八戸市で震度 6 の地震があった。気象庁が「平成 6 年三陸はるか沖地震」と命名している地震だ。マグニチュード 7.2 で、八戸市は震度 6 だったという。

死者 3 名、負傷者 784 名、全半壊 501 棟という被害記録が残っている。実は、前日まで私は近くの弘前市に出張していたのだから、一日の差で難を逃れたということになる。

災害というやつは踵を接して続発するようで、その 3 週間後くらい(1995 年 1 月 27 日)にあの阪神淡路大震災が起きている。早朝 5:46 のことで、私はすでに起きていて、横浜の自宅でもかなりの揺れを感じ、テレビを点けたところ、阪神地方で大きな地震があった旨を知った。実はその翌日に兵庫県赤穂市に行く予定が入っており、新幹線も抑えてあったほどだから、これも一日の差で逃れたということだ。

私は三度も大きな地震に遭遇しているから、「もういいだろう」と、ナマズが一日だけずらしてくれたのかもしれない。だから、皆さんも私の傍にいれば、大地震に遭わずに済むかもしれませんよ。

現在でも、熊本地震、御嶽山噴火、河川の氾濫など、天災被害は日本を休みなく襲っている。その都度、メディアは、「この災害を風化させてはいけない。記憶に残しておくべきだ」ということを発信しているが、そのメディア自身が死者 4000 人という福井の大震災を風化させている。最近、福井地震に言及した新聞、ラジオ、テレビを少なくとも私は知らない。「災害は忘れた頃にやってくる」というが、阪神淡路や東日本の被害は福井を忘れたからやってきたのかもしれない。

「わが妻は予測不能で噴火する」(やくみつる他選『サラリーマン川柳ごくじょう』NHK出版)という川柳があるくらい、災害はいつやって来るか分からない(妻害はいつでも来るけれど)。過去の災害から学んだ経験を糧にして、天変地異に対処しよう。

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